西穂から奥穂の物語──星と雲と雷鳴の稜線
2025年7月25日(金)~27日(日)
メンバー:Yoidoreyamaoyaji、Purin、Niboshi、Suzume
午前3時 漆黒のスタート
小屋の引き戸を開けて外に出ると、ヘッドランプのいくつもの小さな光が揺れていた。シルエットとなった仲間たちが担ぎ上げるザックとウエアとが擦れ合う音が、夜の静寂をやさしく破った。振り仰げば、漆黒の空に数えきれない星が瞬く。冷えた空気が肺を満たすたびに、胸の奥が静かに整っていく。だが、軽いはずのザックを背負う感覚がやけに重い。これから進む細く厳しい稜線に、自分の中の弱さや迷いまでもが照らし出されるのを知っていたからだ。
仲間は三人の女性。重ねた山のキャリアもここに来るまでの背景もばらばらでありながら、同じ目標に向かって、いま並んで立っている。何度も繰り返した岩場の訓練は、単なる技術習得ではなく、「仲間を信じ、自分を信じる」という目に見えない力を育ててくれたはずだ。
ヘッドランプに切り取られた登山道を標に、ゆっくりと歩く。ピラミッドピークに着く頃、東の空が朱を帯び、暗闇の底から色がにじみ出す。やがて御来光が稜線を撫で、眼下には雲海が広がっていく。ゆっくりと流れる白い海に、山々の峰が島のように浮かび、稜線をわたってきた風が、今ここにいる喜びを連れてくる。
西穂ピーク、一般ルートに別れを告げ
西穂ピーク(2909m)でハーネスを装着した。使わないかもしれないが、何かの時の対応に格段の差となるだろう。もちろん、そんなことは望みもしない。紺碧の空はどこまでも広がり、カラビナに反射する光が眩しい。仲間の笑い声が岩壁に反響し、谷へ吸い込まれていく。頂から一歩踏み出すと、ザレた急降下が待ち受けている。そこはもう引き返せない世界。緊張も喜びも、同じ強さで胸に押し寄せる。この感覚は、人生で新たな一歩を踏み出す瞬間そのものだ。安全な場所から離れ、不確かな道へと進むとき、人は初めて「生きている」実感を得る。
鎖を頼りに陽光が眩しく反射する逆層スラブを乗り越え、天狗ノ頭を目指す。石が折り重なったようなルートの、どこを行こうが自由だ。しかし、少しのずれで難易度が大きく違ってくる。ルーファイの力が試される。だが、きょうのメンバーを見れば多少難易度が上がっても対応力には余裕があると踏んでいる。
ブラックエンジェルとの再会
天狗ノ頭からコルまで落石に細心の注意を払いながら畳岩尾根ノ頭、コブ尾根ノ頭までのアップダウンをこなせば、目前にゴツゴツしたドーム状のジャンダルム(3163m)が現れる。まさに奥穂高岳(3190m)に立ちはだかる衛兵だ。ザックを基部にデポし、待望のブラックエンジェルとの再開へと急ぐ。ウエブ上では行方不明との情報もささやかれたが、ピークにつくと、ちょっと太めのエンジェルが出迎えてくれた。近くにいた若者が「15分前に据え付けたばかりなんですよ」とうれしそうに明かしてくれた。思い起こせば、岳沢から天狗ノ頭を経由して初めて登ったのが、右も左も分からない新人のとき、かれこれ20数年前になるだろうか。2回目が8年前、来るたびに黒天使は代替わりしているようだが、いまだに継続しているのがすごい。それは、山を捨てずに今に至る自分にも重なる。この時、脳裏に浮かんだ言葉がある。「No climbing、No life」。いつから、なぜそんな心境になったかは、我ながら謎ではある。
「ロバの耳」は甘い罠
ジャンダルムから先も難所が続く。むしろ、ここからが最大の難所だと言ってもいい。そこは、通称「ロバの耳」。愛嬌のある名称とは裏腹に、深く落ち込む空間が足下に出現する。黒天使が最後の最後に我々を試すために仕掛けた「甘い罠」なのだ。「本当にここでいいのか」「ロープを出して懸垂下降をしようか」‥。足を引くのは恐怖心だけではなく、「もし間違ったら」という記憶の影だ。しかし、その影を超えるたび、足元の岩はほんの少しだけ優しくなる。
ここでNiboshiが、すっと前に出るや下りだした。左側へとトラバース気味に下降する。落ちればただではすまない。そんなことは誰もが理解しているから、みんな固唾をのんで見守る。何分経っただろうか。テラスに無事に降り立った姿を見て、一斉に安堵の表情を浮かべた。よく見ればホールドはあるが、トップで下りるのは勇気がいる。
「自信というほどではないけれど、なぜか行けると思いました。不思議と恐くなかったですね」。吉田のこの言葉に、私は胸に熱いものを感じた。よし、Niboshiに続け!道は開けた。
フィナーレを飾る雷鳴
「ロバの耳」を無事こなすと、いよいよ最後の難所「馬の背」だ。ここに来て、空の表情が一段と険悪となった。西から鉛色の雲が流れ込み、鋭い雷鳴が山を揺らす。風が湿り気を帯び、やがて小雨が降り出す。全員が無言で雨具に袖を通す。岩肌が鈍く光り始め、その上に落ちる雨粒が細かく跳ねる。「あとわずかだというのに。最悪だな」―。心の中で、いまを呪った。
霧が流れ込み、視界は数歩先まで縮まった。なぜか岩肌に書かれた「ウマノセ」の白い文字が浮き立ち、我々を手招きしている。左右の奈落は見えないが、その存在感は肌を刺すように伝わってくる。雨具のフードを打つ雨音、カラビナの金属音、自分の呼吸――静寂の中で、すべてが緊張を刻むリズムになった。
Suzumeは「前をゆく松野さんの足の動きだけが道標(みちしるべ)でした。緊張感はなかったですよ」と、その時を振り返る。左右に奈落を感じながらも、仲間の動きや声が不思議なほど心を落ち着かせてくれていたのだ。
孤独に見える稜線も、実は無数の岩や石、樹木の支えによって成り立っている。我々にしても垂直に切れ落ちる下りで、足の置き場をお互いにサポートし、支え合い、目には見えない絆というロープを編んできたのだ。そして、「なるようにしかならないさ」と、開き直ることも思い出させてくれた。そう、まさに登山は人生そのものに通じるのだ。
「自分たちだけの稜線」。そしてビクトリーロード
パーティー仲間全員が無事に踏破したものたちだけが歩くことができる「ビクトリーロード」。ふつふつと胸の中に達成感が広がる。振り返ると雲に巻かれたジャンダルムがあった。雲に阻まれ全貌は見えないけれど、これまでの道のりが一本の糸のように眼下に伸びているはずだ。その糸は決して真っ直ぐではなく、風に揺れ、時に裂けそうになっていることだろう。だけど確かに続き、私たちはそこを歩き切ったのだ。人生の道もまた、きれいな一直線ではない。谷底を覗き込む瞬間もあれば、雲に包まれて方向を失うときもある。だが一歩一歩を積み重ね、仲間と支え合えば、振り返った時それはかけがえのない「自分だけの稜線」になる。
せっかくゴールした奥穂岳山頂だが、誰も長く立ち止まろうとはしなかった。互いに目を合わせ、「下ろう」と短く言葉を交わす。時折響く雷鳴が、背中を押すようだ。雨脚が一段と強くなり、鉄梯子が黒く光る。眼下に雨で煙る穂高岳山荘の赤い屋根が見えてきた。長く厳しかった縦走も遠雷が終わりを告げた。
【コースタイム】
7月25日(金)ロープウエイ西穂高口14:15~16:00西穂山荘
7月26日(土)西穂山荘3:04~西穂独標4:20~ピラミッドピーク5:40~西穂高岳6:18~間ノ岳7:50~間天のコル8:10~逆層スラブ8:30~天狗ノ頭8:55~天狗のコル9:40~畳岩尾根ノ頭10:30~コブ尾根ノ頭11:10~11:50ジャンダルム12:05~ロバの耳13:00~馬の背13:50~奥穂高岳14:15~15:10穂高岳山荘
7月27日(日)穂高岳山荘6:10~白出沢~11:50穂高平小屋~13:00新穂高温泉駐車場






